【343】子どもにどこまで教えるか。

週刊すず辰343号より抜粋】

日曜(6/2)は子どもらの小学校の運動会でした。

息子2人が予想以上に足が速くなっていることにびっくり。
娘は5-6年生の演武“よさこいそーらん”で、気づけば“センター”の位置!(まぁ、背がちっこいからですが‥‥)

その一方で、長男の“台風の目” を見て、
もっと飛び越すときは、棒を持つ子は早すぎず遅すぎず、飛びやすい速度で低く持たないと!」とか、
「ポールを回転するときは、内側の子は中心で踏ん張って皆をぶん回す感じで」
と勝手に心で突っ込んでいました。

娘の騎馬戦でも、
「(騎乗の)娘はちっこいから、対戦している子らの後ろから帽子をさらうくらいがよかったな」と思ったり。

端からみると、競技の上での改善点は浮かぶもので。ただそれを単純に言ってしまって、良い結果が出たとして、それが子どもらにとっていいのかなとふと追いました。

大人の方が経験値も上ですし、端から冷静に見れば見えることはあります。

でも、そこで、「こうやるとうまくいくよ」とやらせてしまうと、結果は出るかもしれませんが、子どもらが自分たちで「どうやったらうまくいくのか」考え、相談し、そして結果を出すという“過程”を奪ってしまうのかなと。

この“過程”って、要は“自分で考え、試し、結果を出す”という行為です。

小学生な我が子たちですが、小学生のうちに大人ががっちり寄り添い結果を出した子が、その後伸び悩むってあると思うのです。(もちろんそのまますくすく伸びていく子もいるでしょうが)その一端は、上の大人が“教え過ぎてしまう”ことにあるのかなと。

子どもがより良い結果を求めて、試行錯誤しているときに、うまく自分で気づかせるようにヒントを与えるのはいいと思うのです。

ただ子ども自身がまだ求めてもいないうちから“答え”を与えてしまうと、結果以上に、自ら“考え・行動する”って力を奪ってしまうのかなぁ?、と少~し思いました。

ちょうど“親の過保護”って言葉が頭に浮かぶ事柄を身近で聞くことが多かったので、元気に走り回る子どもらを見つつ、なんとなく思った日曜でした。

ありきたりですが、子の葛藤を見守るくらいの余裕が親には必要なんだなぁと、改めて。

まぁここぞの手助けも必要で。

あと少し(10年あまり?)我が子の成長を見守りたいと思います。

 

そんなわけで、「子どもの見守り・成長」をテーマに、過去の文章から関連する話を2つほど。

見守る姿勢とぼやきの効用

 

『試練はごほうび』って、大人にも言えますね。大変な渦中にいると、とてもそうは思えませんが、そこを乗り越えてみると、その過程があったから今があるというか、身についた心の姿勢、技があったり。

親が与えられるのは、心のパワー(源泉)となるような愛情を、たっぷり幼少期に与えることだけなのかもしれません。

職人技の継承のために必要なこと。

上で思うのは「好きこそものの上手なれ」。いろんな体験から、自分の好きを見つけて行ってほしいなと思います。

と思いつつ、次男の「まだ自転車乗れない事件?」はどうすんべと思うのです(笑)。まずは彼自身が「自転車乗りたーい!」と思わないとしょうがないのですが、それは、周りの子から、「えー、乗れないの-!?」言われた時でしょうか?

それまで父はじっと見守る?
見守ることは親にとっての試練でしょうか?

コメントは利用できません。

全国発送を承っています

店主の勝手にセレクトセット