朝、頭がすっきりしているので、少し書きます。
函館で「こども食堂」をつくろう、と年明けから徐々に動き出していますが、「こども食堂」+「こども料理教室」と書いたり、「こども料理教室」の要素が強くなるかな、と書いたり。
既存の「食堂」や「料理教室」という言葉のイメージが先行するため、読んでいる皆さんに誤解が生じてないかと、モヤモヤがありました。
『こどもたちと いっしょに料理を作って いっしょに食べ いろいろ話し 遊びその中でこどもたちが 料理含めて いろんなことを学んでくれるような場を作りたい』ってだけなのですが。
「こどもたちにまずは食べさせたいの?」(支援)、それとも 「こどもたちに料理ができるようになってほしいの?」(教育)と問われ、「うーん、どっちも?」と、我ながら欲張りなことを想い、さらに混乱。
「食堂」として、不特定多数の方に食事を提供するとなると、飲食店営業の許可が必要になってきます。そのためには保健所で検査を受け、飲食店として必要な衛生環境をちゃんと維持・管理できる環境にあるかが第一に問われます。
そうなってくると、そもそも「こどもと一緒に料理する」なんてありえません。
人様にお金をもらって提供する料理を子供に作らせているってだけで、飲食店失格。「食堂」として失格となりそうです。
じゃあ、「料理教室」はってなると、こちらもちょっと違うのです。
別に、いわゆる料理教室、クッキングスクールのように、こどもらを前に講師がいろいろ話ながら実演し、授業さながらに、「包丁の持ち方」「出汁の取り方」「みそ汁の作り方」とカリキュラムを組んで、教えたいというわけでもないのです。
「一緒に料理作る中で」、はじめての子には包丁の持ち方をしっかり教えはするでしょう。
慣れてきた子には、「肉じゃがに使うから人参乱切りで切っておいて」とお任せするかもしれません。さらに行けば、「今日の出汁取りは○○ちゃんがやりました。おいしいでしょ。」っ、みんなで拍手する日が来るかもしれません。
そんな悠長なことやってないで、本当に困っている子にはまずは「食べさせないと」とのご指摘も重々わかります。なにも全員に最初から料理を一緒にやってもらおうとも思いません。
とにかくゆっくりしてもらって、あったかい食事を一緒に食べてもらう、がスタートの子もいるでしょう。
食事まで遊び倒して、がっつり食べるという子もいるでしょう。
学校の勉強を誰かに見てもらってそれからでないと、次に動けない子もいるでしょう。
それもそれ全部ありです。
そもそも、「困った子集まれ―」なんて思っていません。(語弊がありますが)
というか、「食べるに困った子、一人さみしく食べている子集まれ―」と言って、どの程度の子が来るものでしょう。それよりも、「一緒に食べよー、楽しいよー」と広くいろんな子が集まる方がいいですし、見守る大人もいろんな人が来るのがいいんです。(あまりに困ってない子ばっかりでもそれでいいんかい、になりますが)
先日、店に野菜を届けてくれた佐川のお兄さんが、「記事見たよ、おれにできることがあったら言ってね」と言ってくれました。男性から言われたのははじめてだったのでとてもうれしかったです。
(※間違えました。他にも言ってくれた方がもう1人。さらに市の職員さん方を入れるともっと。)
世の中、いろんな人がいるんです。
いろんな人が同じあったかい料理を囲んで食べるからいいんです。
そしてその中心にこどもたちがいるんです。
別に「食堂」がしたいわけでも、「料理教室」がしたいわけでもありません。
ゆるーくていいので、こどもが安心してあったかいものを食べる場をつくる。
そこで、遊びや勉強やお話を一緒にする。その一環に、一緒に料理をするができる場。
そして、欲をいうと、こどもらが料理をするって力を身に着けてくれたら。
そんな思いです。
それって、「家庭」といっしょじゃん、と言われればそうですね。
でもそれこそ、私がしたい、「こども食堂」です。
まぁ、実際問題。「人に食べ物を提供する」のか、「一緒に料理して食事を食べる」のか
という見え方の問題で、保健所さんには、「飲食店」か、「料理教室」かと、区別されるかと
思いますが、あくまでやっぱり「こども食堂」です。
とここまで書きましたが、あくまで現時点での私の想いです。
実際は、いろいろと形にする中で、落としどころが変わってくるかもしれません。
これからいろんな人と関わり、そして実際にこどもらとかかわる中で変わっていくこともあるかもしれません。
ただやりたいのは、「こども食堂」だ、と改めて当たり前のことをすっきり思えた朝だったのでつらつらと書いてみました。
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