【353】多様性を許容する社会って

週刊すず辰353号から抜粋】

NHKスペシャル「戦争と“幻のオリンピック” アスリート 知らせざる闘い」というドキュメント番組内で、国が戦争に向う中、「スポーツは国家のためになるものでなければ」という文部省官僚の発言があったらしい。(私は途中で離席したので、番組を最後まで見た女房からの伝聞です)

これを見て、「研究を取り巻く状況が今、なぜ同じようなことになってるんかなぁ」ってのが女房の感想。

研究の世界は独立行政法人になって以来、年々国からの予算が削られ、結果、女房は先日、羅臼でのシャチ調査継続のためクラウドファンディングなることにチャレンジしたわけです。(ついでに、効率よく成果が出る研究だけが推進されるとか)

ノーベル賞受賞した日本人研究者の方々が、研究への予算配分をもっと増やしてほしい、といったことを訴えていたりしますが、研究なんて最初からためになると思うことをやって成果が出るというものでもなく。

研究者が自然界にある事柄で、これおもしろいと思った、他の人が見向きもしない事柄を掘り下げた結果だったり。

本当にいろいろ試行錯誤した末のたまたまの産物が大きな結果になるってことが多く、如何に「それなんか社会の役に立つの?」という質問に負けず、無駄と思えることをたくさんやれるかどうかが大事だったりします。

ある意味、多様ないろんな研究者の知的好奇心を、「役に立つかどうか」なんて気にせずどれだけ自由にやらせるだけの度量が、余裕が国にあるかどうかが大事で、そういった意味では「日本社会に多様性を許容するだけの器がなくなってきている」のかもしれません。(単にお金の余裕がないとも言えますが…)

先日、愛知県主催の芸術祭(あいちトリエンテナーレ)内の「表現の不自由展」が開催中止となった件も、名古屋市長や菅官房長官から、「(公的資金を元に行った)芸術祭では不適な内容でないか」といった指摘が出た点も、「あるべき」が強要され、良くも悪くも議論となるような表現が制限されていってしまう社会の息苦しさを感じます。

 

日本社会全体の器が試されているのかなぁ、と思う今日この頃です。

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